『ゆきゆきて神軍』(87)、『全身小説家』(94)、『極私的エロス・1974』(74)、『さようならCP』(72)。ドキュメンタリーの鬼才として知られる原一男監督が、初の劇映画に挑戦した『またの日の知華』。
その原監督に、今回ファンムーは独占インタビュー! 貴重なお話を聞かせていただく事が出来ました。
1人のヒロインを4人の女優が競演!
『またの日の知華』は、1人の女性“知華”が愛に生き、流され、落ちていく様が第1章から第4章までのストーリーとプロローグで構成されている作品。
知華と4人の男たちとの愛の遍歴を描いた本作では、“1人のヒロインを4人の女優が演じる”という世界でも例のない画期的な取り組みがなされました。
どのようにして1人の女性を4人の女優が演じることになったのか、監督にキャスティングのいきさつについて話していただきました。
「2〜3年前に桃井かおりさんと別の用件で会った時に、この映画をやりたいと思っている―1人のヒロインを4人が演じると言う事をやりたいんだ、と言う話をしたら、桃井さんがえらく興味を持って、『あ〜、それ私やりたい。やらせてよ。うん! きっと、私やる。決まり!』と彼女が言い切ってくれて、第4章の知華を演じてもらうことになりました」
「第3章の知華を演じた金久美子(キム・クミジャ)さんとは、一緒に撮った『全身小説家』がベスト1になって、その受賞式の後2人で飲んでいるときに、『また劇映画をやる時は必ず一緒にやろうね』という約束をしていたんです」
「第2章の知華は心意気で演じてくれる人…誰がいいかなと探していた時に、『M/OTHER』(99)の渡辺真起子さんがいいのではということになり、会って話をしてみると、『ぜひやらせてほしい』と言う事で決まりました」
「第1章の知華が一番迷ったんです。当時 吉本多香美さんは『皆月』(99)に出演して話題になっていて、観に行って『いい女優だ』と思い、本人も『やらせてほしい』と言う事で決まりました」
「男をメインで撮ってきて、今度は女の人を描いてみたくなったんです」
今までドキュメンタリーを撮ってきた監督が、なぜ今回劇映画を撮ろうとされたのでしょうか?
「いままでやってきたことの“総括”をやってみたくなって」と監督。
「僕の気持ちの中で、男と女という関係を、一つの作品の中で描かないと気がすまないというのが基本的にあるんだと思う。今までやってきたドキュメンタリー4本の作品で、僕の中での問題意識というものが一巡して終わっちゃったんで、次のステップに上っていかなければいけないと思いました」
「『ゆきゆきて神軍』の奥崎さんのような生き方はもう時代の推移とともに、『もう、あれで終わったんだ』という感覚がありました。男をメインで撮ってきて、今度は女の人を描いてみたくなったんです。日常的にいつもいつも『あんたは女を解っていない』と言われ続けてきたこともあって、『よし! 女を描いてみようじゃないか』、そんな意地を張って、というところもあって、『今回、女を描こうよ』ということになったんです」
「ドキュメンタリーの作り方というのは、主人公たちの“生きている日常生活”に伴走していくような撮り方ではなく、『あんた達の映画を撮るんだから何かやりたいことをやって見せてよ』『どんな風に演じて見せてくれるの?』というような興味でもって、カメラで凝視していくというスタイル。その感覚からいうと、劇映画もシナリオがあるんだから、俳優さんがそれを読んで、どんな風に演じてくれるかという事でいいと思っていました」
「今作ではその女優さん女優さんで、一番良い演じ方のパターンというのは、演じる人によってそれぞれ違うんだなあ、ということが分かったというか…。ドキュメンタリーと同じで、『どんな風に演じてくれるのかな』という事を、『自由に演じてもらっていいんだ』というところに戻っていくと言う感じがありましたね。自分の思っているイメージを女優さんに無理に押し付けるのではなく、それぞれの女優たちが、『自分の解釈はこうなんだよね』と、探りながら演じてくれたことで、作品が完成しました」
「劇映画と言うのは、基本的には俳優さんのドキュメンタリーであるという感じが近かったですね」と、ドキュメンタリーと劇映画の違いについて、原監督独自の視点で語ってくださいました。
知華を取りまく様々な男性。彼らの中に、監督自身の姿は投影されているのでしょうか?
「第2章で、渡辺真起子さんが同僚の教師(田辺誠一)からの電話で会いに出かけて行く。身体の不自由な夫(田中実)は止める事が出来ない。このシーンは『まさに、現実の体験です』」と話す監督。他にも監督の内なる部分が見え隠れしている場面が随所に出てくるそうです。
1章から4章に出てくる男たち―それぞれの存在が知華にとって、兄であり、弟のようであり、父のようである。彼らそれぞれに意味がある―シナリオライターとしての小林佐智子さんの狙いは「まさに“そこ”にある」と言います。
「我々の存在―“肉体”を縛っている幻想みたいな部分を追求したい、という欲求があったんです」
「『またの日の知華』は解放の物語」
本作では《落ちていく感じ》と言う言葉がよく出てきます。知華という女性は男性遍歴を経て、堕落していく、転落していく女のイメージと言う見方がありますがその点はどうなのでしょう?
「そういう捉え方ではなく、解き放たれていく、というか“解放されていく物語”を撮ろう、しがらみから遠く遠く離れていく、より自由になっていく、という風に考えました」
それでは、その“解放されていく”知華は、最後は死ななければいけなかったのでしょうか?
「解き放たれていっても、この世にユートピアがあるわけでもなく、どんどん自由になっていくけれど、どんどんしがらみみたいなものは追っかけて来て、その究極の形が『殺されるかもしれない』と言う予感に結びつくんです」
「もともとヒントになった事件が殺人事件なものですから…」とアイディアのエピソードを披露してくれる場面も。
ラストのエピローグで、知華の息子・純一が知華が殺された島を訪ねるシーンが登場します。その意図するところは?
「息子と言うのも息子でありながら男。いらないシーンとも思いましたが、形となった今、必要なシーンになりました。作り手として“息子”と言う存在は入れたかった。自分の母親と関わって来た男たちを描きたかったわけですから―」
ラストシーンでは、当初、吉岡秀隆扮する息子純一に知華そっくりの女性が声をかけるというシーンが用意されていたそうです。色々なパターンが考えられましたが、様々な事情もあって、今回の形に落ち着いたとのこと。
「どういう終わり方をしても、映画というものは意味を持って来る」と語った監督。
この船着場の風景は物語に余韻を残し、自分の胸に問いかけるシーンとなっています。
また、劇中で随所に使われている70年代のニュースフィルムに関しては、「それが背景の時代説明と言う事になれば、作り手の負けである、と思います」と監督。
「その時々の時代の中で、知華は自分の生き方を選んで駆け抜けていくと言う感覚があったので、“映画でやってみよう”と言う事になったんです」と説明してくださいました。
「次の作品の取材に、すでに動いています」
桃井さん扮する知華が瀬川(夏八木勲)に殺され、海の中を引きずられるシーン―パンフレットの表紙やポスターにもなっている印象的な場面は、飛島ロケ。お天気になかなか恵まれず、曇りの中で撮影を開始したところやっと晴れたのだとか。
監督のイメージ通り“血のような真っ赤な夕日の中”で撮影は無事終了しましたが、「実際撮り終えて見てみると、曇りの方を使うことになりました」と、エピソードを披露してくださいました。
また、脚本を書かれた小林佐智子さんに『またの日の知華』のタイトルの由来についてお伺いしました。
「詩人・中原中也の『またくる春』―春がきたとて何になる―という、息子を亡くしたときの詩があるんです。そこから来ています」
さて、初の劇映画の監督も無事に終え、今後はどのようなお仕事展開をされるのでしょうか?
「今後はやはりドキュメンタリーもやりたい。今まで作った流れじゃない方法を見つけないといけないな、と思って取り掛かってはいます。興味ある素材として、70年代の“嬰児殺し”を考えていて、すでに取材に動いています。ドラマもやりたい。“国定忠治”をやろうと気持ちは固めています」
1本1本に独自のオリジナルティーがあふれる原監督。今後の作品に、期待が寄せられます。
4人の女優、それぞれが演じる知華は同じ人物であって同じではない。
女性の持つ悲しみと心の孤独。知華が捜し求めていたものは、1人の男性との小さな幸せだったかもしれません。
死して初めて、“永遠に落ちていく”という感じから解き放たれ、“自由”になった知華。人は―特に女は、1人では生きてゆけないものなのでしょうか。絶望や悲しみ、愛や希望を共有する人が必要なのでしょうか。
何をどうすれば、知華は幸せになれたのか? 同じ女性として、その人生の目標をなくした知華の生き様を考えずにはいられない、『またの日の知華』。
あなた自身の生き様を決めるのは、あなた自身なのだから――。
◆